昭和48年04月06日 朝の御理解



 御理解 第87節
 「腹は借り物と云うが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は神の氏子が我胎内に居ると思うて大切にせよ。」

  今日私は御神前で此の鋏を御心眼に頂いた。是は以前に秋永先生と此の奥さんから頂いた鋏なんです。小さい小さい鋏なんです。こんな小さい良く切れますけどね、是何かハクライの鋏。どう云う事だろうかと、私は思ったんですけれども、この鋏をこうして見てみるとあのう丁度、あのう真宗の御仏壇の中に、こう置いてあるロウソク立てね、鶴の格好の、ロウソク立てがありましょうが、あのお仏壇の中、真宗の御仏壇の中には必ず、ローソク立が鶴の様な形になって、是もやっぱり鶴です。
 鶴の形になってる是は鋏なんです。どう言う事だろうかとこう思うんですけれども、おロウソクを立てる台、と云う事は明るくする事の為の土台と云う事になるんじゃないでしょうかね。例えばロウソクは自分の身を縮めながら、あたりを周囲を明るくする。信心と言うのは大体そんなもんだと思うのです。信心して御利益を受けると言いますけれども、信心して徳を受けると言う事が本当でしょう。
 信心して心に光を受ける、頂くと云う事。例えば、自分の身を削ってでも人が助かる事の為に、自分の身を縮めてでも世の中が明るくなる事の為に奉仕する。それが信心者の私は考え方でなからなければならないとこう思う。私は今日はこの八十七節、是は勿輪女の方に対する御理解なんですけれども、我が胎内に居ると思うてと云うてと、この胎内の胎と云う字は月辺にム口と書いてある。いわゆる台と云う字が書いてある。月はおかげのまあー受け場と云う事でしょうね。
 月がまん丸い月であれば、昼を欺く様な光を放つ事が出来るし、三日月さんであれば、それだけの光ですし。私共はだから所謂満月の様な心、云うなら和の心を願い、和の心を求めてするそういう土台。是は先月の四、五日前の御理解でしたかね、懐妊の時腹帯をするより心に真の帯をせよと云うあの御神訓に基づいて頂いたですねえ。是はあのう、これもやはり懐妊と云う事ではなくて、私共が願いに願って止まないと云う物が私共に宿ると、例えば難儀と云うけれども。
 難儀と云うものは実を云うたら良い物が産みなされる事の為の神様のお計らい、だから、その難儀そのものを大事にしなければならないと、云う様な風に頂いたですね。まあそう言う様な意味に今日の場合も頂いて頂きたいとこう思うです。勿論これは女の方が頂く、本当にあのー懐妊のおかげを頂いたならば、神の氏子が宿ったと思うて、胎内にいると思うて大切にせよと云う事は、是は体を厭えと云う事ではなくて、今の言葉で言うと胎教と申しますね、胎教を良くせよと云う事。
 大事すると云う事はそう言う事だと思うんです。母親のいわゆる、心の状態がお腹の中の子供の上に迄響くと云う事だ。だから今日はそういう意味も有りますけれども、今日私がお知らせ頂いたのが、この鋏を頂いての事でしたから、この鋏と云うお知らせは、何時もチョキンとこう仰る。是は信心の、信心が貯ると云うかお徳が貯って行くと云うか。所がこの小さい小さいもう是以上の鋏はなかろうと思う様な鋏を頂いたと云う事は、是は貯金が少なくなって来よる、信心の貯えがなくなって来よる。
 貯えがなくなって来ると寂しゅうなる、イライラして来る、様にですね、私共信心の貯えが出来るとゴロゴロ引き出よるもんですから、おかげを頂きよるから信心の方の貯金が少なくなって来る。そういう意味もこの中にはあると思う。そしてこれは私が頂きますのは、そんなら成程鋏ですけれども、それが何とはなしに御仏壇の中に使う鶴の形をしたおロウソク立てに見える様な感じでお知らせを頂いた。
 それから今日は頂いて、そんなら八十七節を拝読させて頂くと、我胎内にと云う胎と云う字が月辺に台と書いてある。だから是はおかげの土台と云う事。だから今日はとり混ぜた様な事ですけれども、その私が言うておる一言一言の中から銘々が頂いて欲しいのです。こう継ながった物では無くてですね。だから皆さん心、寂しゅうなったり、心がイライラしとるならば貯金が少なくなりよる時と思わにゃならん。又本当に今こそおかげの土台を頂いておると云う時には決して楽な時ではない。
 おかげの受け物であり、おかげの土台でありいよいよ世を明るくする、家の中を明るくする明りを立てる為の土台が出来ておるんだと云う人もあろう。昨夜壮年部会で御座いました。大変まー皆さん良い発表をしておられました。石井喜代司さんがこんな事を、自分でもその事に気付かんで話しておりましたけれども、私は其処ん所を、あーほんに成程なあと思うて頂いた事なんですけれども。例えば妊娠のおかげを頂くと云う様な事、そんなら懐妊のおかげを頂くと云う事。
 今の人は自分の都合の良か時に産んで、もういらなきゃ産まん様にすると云った様なことを致しますね。けれども是は、いわゆる結婚、そして懐妊。もう是は自然の働きの中に、もう自然の中に与えられ、自然の中に産みなされ、一番都合の良い時に良い子が生まれる。だからもう、何人で良かてんなんて云う、不自然な事はまあいけないと云う事です。でないと、どの子がどの様に素晴らしいおかげを頂いて呉れる元になるやら分からんのです、実を言うたら。
 私が七人の子供を持たせて頂いておるけれども、その七人の子供が本当に女男女男と云う様にですね、最後に男男になったから、、是でもうおしまいになっただろうなと思ったら、もうそれっきりでしたけれども、その子供達の一人一人がです、もう何とも言えん、それこそ妙なる迄の働きの中に、例えば世の中を明るくして行く事の為に私はこうして奉仕をしておる。
 人が助かる事の為に、こうして奉仕をしておる。その子供達が一人一人が、その手になり足になって御用してくれておる事を思いますとです、もう実にその微妙な事であります。そういう意味の事は言ってませんでしたけれども、そのう自然の働きと云う事はね、例えて云うならば、菜の花が咲く、だから今時はビニールの中でども咲かせられると云う訳です。寒か時でも菜の花を咲かせようと思うたら、咲かせられるけれども、それは仇花に終ると云う事を言ってます。
 やはり自然の春なら春に菜の花が咲くものであるならば、丁度あの蝶々がおる時に咲くんだと。だからあの蝶々の媒介によって実が実るんだと云う様な事を話してました。私は其処ん所を、本当にそうだなと思いました。お互いがどうぞどうぞと云うて、おかげを願わせて貰うてもです、本当言うたら一年後にやろうと思うて御座るおかげでもです、もうどうぞどうぞとあんまり云うもんじゃから、そんなら冬のつを夏下さると云う事になりましょう。だからおかげは頂いても花は咲いても。
 それは実らないと云う事になるのです。本当の実にはならないと云う事です。例えば、懐妊と云う事でもやっぱりそうです。自分の良い時、都合の良い時と云う様な不自然な行き方をするとです、成程子供は産まれるだろうけれども、それが本当に適材適所、成程親のこういう時に子が間に合うてくれると云った様な働きになって来ないと思うのです。もうその辺の事をお話すると、それは微妙な事ですから、まあそれだけでも一つ何か系統立てた学問になる様に思いますね。
 自然との継ながりと云うか、懐妊と云う事でも、自分が作るのじゃない、神様が恵んで下さるのだ。それをこちらの人間の都合で我が良い様にすると云うのですから、是はやはり御無礼でしょうね。どうしてもです、我胎内に居ると思うて大切にさせて貰うと云う事がです、その大切にさせて頂いて、それが良いものが産みなされて来る。それが光にならない筈はない。実にならない筈はないと云う事なんです。
 まあ取り混ぜたお話でしたけれども、まあ色々に今日の御理解は頂いて、懐妊の時の御理解ですけれども、其の事を、今日私がお知らせを頂いた様々な感じた事を聞いて頂いた。昨日私は大阪の明度先生からお手紙が来とった。そのお手紙の返事を昨日書かせて頂いた。「合楽教会の益々の御比礼、心よりお慶び申し上げます。九州に生きた祈りのお広前有りと嬉しき限り、喜ばしき限りです。あれから早や半年過ぎました。阿倍野の先生も益々多用で御精進中であります。
 この春の大祭、宣教に例年の通り出向致します。九州の合楽、大阪の阿倍野、日本の両横綱の御比礼にあやかるべく元気でおかげを頂きます。」と、云った様な事が・・阿倍野があちらの横綱ならば、合楽は西の方の横綱だと言う表現。私はこれ見ておかしゅうなってきた。そら阿倍野と云や皆さん御承知の様な御比礼、もうそれこそ阿倍野の先生が横綱ならば、内はまあだふんどし担ぎじやろーと笑った事ですけれども、こう言うお手紙を頂いておりましたから、それに対する御返事の様な物を書かせて頂いた。
 皆さんどうぞ、今日の御理解と併せて頂いて頂たいと思うのです。拝啓、陽春のみぎり、先生には日夜御精進の御様子真に有難い極みであります。お手紙拝見させて頂いておる内に、一筆書きたくなりました。最近の私の信心をお聞き頂きたいと存じます。阿倍野の伊藤先生にお目に掛かり、日頃念願させて頂いておった願いが、愈々確信を持って、信心を進める事が出来る様になった思いであります。
 教祖生神金光大神の御取次の教化に依って、世界総氏子の上に、平和と自由を得る事が出来ると信じられる様になりました。お道風に申しますなら、日々御取次の働きに依って、常に救われつつある私を思います時、世界中の氏子も又、取次助けられるに違いないと、信じております。世の人達が様々な難儀の中に、苦悩している間にあっても、私の心の底から、和らぎ賀ぶ心と、自由の光を頂いております事、これ一重に、金光大神御取次の成就しておる、姿と思い信じております。
 同じ世の中に生きておる世界中の同胞であり、神の氏子が苦しみ悩みある姿を見ては、どうかさせて頂きたいと云う心が止むに止まれぬ思いで起こります。私にその力があるとも思いませんが、私は金光大神取次に依って明るい喜びの日々を頂いておりますので、此の道を人類同胞に共に助かって欲しいとの念願に燃えておる次第であります。私の信心生活の中心の願いをお聞き頂き、是からも先生の御教授を頂きたく、悪筆も省みず、ひと筆したためさせて頂きました。
 末筆乍ら奥様それから伊藤先生にお目に掛かられましたら、暮れ々も宜しく御伝言下さいませ。」と、云う様な内容・是は私は書いてしまってから思ったんです。是は私でなければ出来ないんだと云う事です。私自身が金光大神の御取次に依って、しかも私位な者でも金光大神のお取次を頂いて、此の様に助かっているんだから。私を日々御取次の働きに依って常に救われてある私を思います時、私世界中の氏子も又、取次助けられるに違いないと、私の心の中にいよいよ和賀心、和らぎ心が育って行っておる。
 ですから、此の喜び此の有難い物を、世界中の同胞、神の氏子に是を伝えて行きたいと云うその念願をですね、書かせて頂く私くし自身が助かっておらずして金光大神が素晴らしい素晴らしいと云うて、云ったんではこの手紙は書けないと思う。是は私自身が助かって行っておるからこそ、是が書けるんだと思う。それは今日の御理解から頂いて、どういう風に頂くかと云うと、やはり心に光をいよいよ大きく金光大神御取次に依って頂いておると云う事に、他ならないと思うのです。
 どうぞ一つ、銘々が助からなければ、和賀心時代を創ると云った様な大きな例えば、運動に参画する事は出来ません。先ず自分自身の心が助からなければ。昨日善導寺の原さんが発表しておられました。長永年信心させて頂いて、もう最近はもう一家中が勢を揃えて信心するから、是より有難い事はない。まあ是は不思議と云うちゃならんばってん、不思議でたまらん事が有ります。と云うのは私が二十年前ご信心を頂く前に、洋服屋さんですから針仕事をなさる。
 もう肩が凝って凝って、どうにも出来なかった事が、信心させて頂く様になってこの方、肩の凝りと云う事を覚えたことがない。もう是だけでも、おかげを受けておると云うことが分かる。是と同じ様に形には見えません、感じませんけれどもです、感じ取ることは出来ませんけれども、その様なおかげを頂いておるに違いないと、云う発表をしておられます。ですから違いはないと思うと云う所を、其処をはっきり分からせて頂く所に、信心がある訳です。
 所謂目に見えるおかげより目に見えないおかげを分からせて貰う。だから有難い。昨日の御理解じゃないけれども、いわゆる御礼の信心が出来る。還元の生活が有難く出来る。何と云うても御礼の信心程有難い物はない。楽しゅう信心をさせて貰うと云うならば、いわゆる御礼の信心に限るのだと云う意味の事やらも、昨日の御理解やらも頂併せて、今日の八十七節を頂いて頂きたいと思います。
   どうぞ。